創業者 八木敏夫 物語 第1回

 

円本から文庫本ヘ

 岩波文庫の創刊は、昭和2年7月9日付『朝日新聞』に発表された。第1ページ目の上半分を使った大きな広告だ。当時の1面は広告になっていた。そのページを繰ると、次にジュネーブ軍縮会議の関連ニュースが載っている。
 岩波の広告は「古今東西の典籍 自由選択の普及版 岩波文庫」とある見出しの次に、哲学者三木清と岩波茂雄の手になる格調高い宣言「読書子に寄す」が続いていた。「真理は万人によって求められることを自ら欲し……」。みなさんは今も文庫を手にするたびに、このマニフェストを目にしている。そして翌日から発売になる漱石『こゝろ』、プラトン『ソクラテスの弁明・クリトン』など32冊の書名が並んでいた。
 神戸・元町の新刊小売店福音舎書店の住み込み店員となって3ヶ月が過ぎていた19歳の八木敏夫は、この広告に衝撃を受けた。八木は「円本」のセールスを一生懸命にやっていた。
 円本---昭和初期に発行された1巻が1円の全集物だ。大量生産で安くなった。大正15年、改造社が『現代日本文学全集』をこの形式で刊行してから各社がこの種の出版を競い「円本時代」が展開されていく。元町や三宮の商社など商社員に「安い本で知識と教養を」---と勧めていたのに。
  岩波文庫は、露伴『五重塔』、チェーホフ『桜の園』など22冊が翌10日に一斉発売され、9月5日のポアンカレ『科学と方法』までで広告にあった32冊全部が世にでた。店に届いた文庫から愛読書の倉田百三『「出家とその弟子』を手にとると、ホシ印が2つのたった40銭である。本にある「読書子に寄す」を改めて読んだ。「……必読すべき真に古典的価値ある書を極めて簡易なる形式に於て遂次刊行し……」。八木の転身の心は決まった。「出版をやろう」
 父の事業が思わしくなく、八木は神戸の育英商業をでると、父の縁からキリスト教系のこの書店に入った。中学の制服から、ボタンをつけかえただけの姿で店にたち、将来の独立を目指した。それがどうだ。今まで2円、3円した本が「円本」で安くなった。この文庫はそれをまた、こんなに安価で読ませるという。新刊本屋の利益は薄くなろう。「食べていけないのでは、という気がしました」
 本の知識を積むには、まず古本だ。岩波書店の創始者茂雄だって、古本屋からスタートしたのだ、と八木は思う。父が店主とかわした約束「徴兵検査まで」の2年を懸命につとめた。検査は乙種合格、すぐ兵隊に行かなくてもよくなった。
 そのころ、東京・神田の古書店にいた人が、福音舎に入社してきた。その人は「修業するなら神保町の一誠堂がいいよ。いま帝国大学法学部を出た人が入って隆々とやっている」と八木に教えた。「帝国大学を出た人」は、八木が今日までの60余年を兄事することになる反町茂雄である。のちに、埋もれていた貴重な古典籍、国宝、重要文化財を世に出した功績は計り知れないといわれる反町は、やはり出版を志し、修業のため一誠堂に小僧として住み込んでいた。反町の働きに店主の酒井宇吉はどんどん給料を上げ、反町の東大同級の最高の月給が90円なのに、160円を取ったという。
 八木は酒井と反町に手紙を出した。「兵隊に行ったつもりでがんばる」というこの手紙に、神戸の古書籍店「ロゴス」に商用で来た反町が八木を訪ねた。八木の一誠堂入店が決まった。
 岩波文庫は多くの読者の熱狂的歓迎を受けた。「一生の教養をこの文庫に託す」という手紙に、岩波茂雄ははじめて出版者になってよかったと思った。八木は、この文庫の出現で進路を変えた。
 昭和4年春、年期のあけた八木は上京した。

 続く